東京高等裁判所 平成8年(う)1437号 判決
被告人 藤井宏雄
〔抄 録〕
所論は、要するに、被告人の行為は巻野隆(以下、「巻野」という。)からの急迫不正の侵害に対する防衛行為としてなされた正当防衛であるから、被告人は無罪であり、正当防衛の成立を認めなかった原判決には重大な事実誤認がある、というのである。
記録によれば、被告人が本件犯行に至る経緯について原審で供述するところは、おおむね次のとおりである。
すなわち、(1)被告人が原判示の工事現場においてコンクリートの床部分に養生シートを張り始めた際、その付近で作業していた巻野が被告人のところに来て大声で「馬鹿野郎、そうじゃないだろう」と言って、いきなり被告人の左耳の下の首の辺りを手拳で一回殴ったうえ、「朝、ビニールシートは三枚張ると言っただろう」と述べた、(2)被告人は「そんなことは聞いていない」と述べたが、巻野は、今度は、被告人のそばに置いてあった三種類くらいのテープにつき、「それで張るんじゃない。これで張るんだよ」と言い、被告人に背を向けて歩き出した、(3)そこで、被告人は、巻野の背後から「張れればどっちでもいいだろう。」と大声で言い返した、(4)すると、巻野は、被告人の方に振り向き、「何、この野郎」と述べて拳を構えた姿勢で被告人の方に向かって走ってきた、(5)被告人は、これを見て、左斜め前の方向に走って移動したが、結局、巻野と向かい合って一瞬立ち止まった、(6)その際、巻野が被告人の顔面をめがけて手拳で殴りつけてきたため、被告人においてとっさに顔面の前に両腕を交差させるようにして突き出したところ、巻野の手拳が被告人の右肘辺りに当たった、(7)その直後、被告人が巻野の右頬の辺りを左手拳で一回殴った、というものである。
一方、本件犯行をその直前から目撃した原審証人和智繁孝(以下、「和智」という。)の供述内容は、「ガサッ、ゴソッという複数の者が今から駆け出すような足音が背後から聞こえたため後ろを振り向いたところ、被告人が巻野の顔面を手拳で殴るのを見た。その際、両者の体勢は、被告人が巻野の方に向かって進むという感じであり、巻野はつまづいて体勢を十分に立て直せずに『とととっ』と後方に下がったような格好であった」という趣旨のものである。
原判決は、和智の右供述から、被告人と巻野が駆け出し始めてから本件犯行が行われるまでの間、両者は立ち止まることなく移動し続け、その間、もっぱら被告人が攻勢、巻野が守勢であり、被告人が巻野を殴った時点では、後ろにひっくり返りそうな格好でその体勢を立て直そうとしながら後方に下がっている巻野を被告人が追撃するような状況であったと認定し、巻野による急迫不正の侵害を否定するとともに、被告人の前記(5)、(6)の公判供述は信用できないと判示している。
しかしながら、和智の供述する「被告人が巻野に向かって進み、同人が『とととっ』と下がった格好」という趣旨については、目撃した時点の状況に関する和智の供述中に「被告人が巻野を殴打しようとするまさにその瞬間を見た」、「被告人は走りながら手を出していた」とする部分もあること及び和智が捜査段階で「振り向くと被告人が巻野を殴るのを見た」(和智の検察官事務取扱検察事務官及び司法警察員に対する各供述調書)と述べていることなどからすると、「とととっ」というその表現そのままに巻野が後方に移動し、これにつれて被告人が前に歩を進めるという、ある程度の時間的経過と場所的移動を伴う状況を目撃したというものではないと理解するのが相当である。
また、原判決は、「複数の者が駆けだすような音を聞いた」という和智の供述から、文字通りに足音を聞いた時点から両名が駆けだしたと認定しているが、本件犯行現場が騒音を伴う工事現場であり、和智において、本件犯行前に被告人らの行為により生じた音をすべて聞き得ていたわけではないことからすると、右のように直ちに認定できるかは疑問であり、被告人が供述するような両者の移動状況の中で生じた足音を和智が耳にした可能性も否定できないところである。
そうしてみると、和智の原審における供述を根拠として、直ちに被告人の前記(5)、(6)の公判供述を信用できないとして排斥することはできないというべきである。
そこで、さらに進んで、被告人の前記公判供述の個々の内容をみると、前記(1)ないし(4)の点については、被告人が「張れればどっちでもいいだろう」と言い返した時点で巻野は既に被告人に「背を向けて」歩いていたとし、また、巻野が被告人の言動に触発されて「走って」向かってきたとするなど捜査段階の供述に現れていない事柄を含むとはいえ、その内容は全体として、当時の両名の作業内容及び関係証拠からうかがわれる巻野の性格等に照らし、不自然、不合理とはいいがたいものである。
また、前記(5)、すなわち被告人が左斜め前に走ったという点についても、捜査段階の供述には現れていない事柄ではあるが、原審公判廷では、そのような行動をとった理由について、「被告人が当時作業をしていた付近にはコンクリートの床から突き出た鉄筋が多数存在していたためそこで殴られ転倒したら大怪我をする危険を感じたからである」旨具体的に説明しており、被告人が述べるような鉄筋が存在したのであれば被告人の右行動は不自然、不合理とはいえない。なお、被告人が供述するような形状の鉄筋が当時存在したかについては、現場写真等の客観的な証拠が存在しないため明らかではないが、本件のような工事現場の一般的状況からみてあり得ないことではないと解され、原審証人佐藤匡の供述中にもこのことをうかがわせる部分がある。
次に、前記(6)のうち、巻野が被告人に殴りかかったという点についても、既に被告人を一回殴打しその後拳を握りしめて被告人に再び向かってきた巻野がさらに殴りかかることは事の推移としてむしろ自然であるうえ、捜査段階において、被告人は現行犯逮捕の時点から右の事実を一貫して供述していたところであって(現行犯人逮捕手続書及び被告人の検察官事務取扱検察事務官に対する各供述調書)、その供述の信用性を否定すべき事情は見当たらない(なお、巻野が被告人に殴りかかったのであれば、その体勢からして前のめりになることはあっても、和智が目撃したように巻野が背後によろめく体勢になることはあり得ないのではないかともいえるが、被告人が原審公判廷で供述するように、その両腕で巻野からの殴打を一旦受け止めたとすれば、同人がその反動や被告人の反撃の姿勢にひるむなどにより右のような体勢に転ずることも十分に考えられるところである)。
また、前記(6)のうち、被告人がその両腕を交差させて巻野からの殴打を受け止めたという点については、原審公判廷で初めて供述したものであるが、被告人は、捜査段階においても、検察官事務取扱検察事務官に対しては、「殴りかかってきたのでよけた」旨供述しており(前記各供述調書)、「よけた」という表現には、身体への接触を回避することの意のほか、腕等をいわば楯にして狙われた部位への攻撃を封ずることを意味することもないではないから、「よけた」という行為の内容をさらに敷衍して説明したとする被告人の公判供述を直ちに排斥することもできないというべきである。
ちなみに、本件においては、巻野が被告人の行為により頭部に傷害を負い、その結果、犯行前後の状況について記憶を喪失していることがうかがわれるため、和智が目撃する以前の被告人及び巻野の行動については、被告人の供述を中心に検討せざるを得ないところ、右のとおり、同人の公判供述には、それ自体に特に不自然・不合理な点はなく、また、関係証拠に照らしても、その信用性を直ちに否定するほどの事情は認められないというべきである。したがって、正当防衛の成否については、被告人の右公判供述を前提として判断するのが相当である。
そうすると、被告人の殴打行為は、被告人の作業内容に不満を抱いていきなりその首を殴打するなど攻撃的な姿勢を示していた巻野が、その後、被告人の反発にあって腹を立てて再びその顔面めがけて殴りかかったその直後になされたものであって、その一連の経過からすると、被告人は巻野から急迫不正の侵害を受ける状況にあったと認めるべきものである。原判決は、前記のとおり、和智の目撃した状況がある程度の時間的経過と場所的移動を伴うものと理解し、かつ、その間もっぱら守勢であった巻野を被告人が追撃する状況にあったとして巻野による急迫不正の侵害を否定しているのであるが、右認定は支持し難いところである(なお、被告人の司法警察員に対する平成七年一〇月三日付け供述調書にあるとおり、巻野が拳を作って被告人に近づいてきたという状況を認定できるにとどまるとしても、巻野が既に被告人を一回殴打していたというそれ以前の同人の挙動等をも併せ考えると、同人による急迫不正の侵害の存在を否定することは困難である)。
そして、被告人の殴打行為は、このような巻野の攻撃に対応してなされたものであり、被告人が巻野の言動に腹を立てていた形跡はうかがわれるとはいえ、右攻撃に乗じて積極的に加害行為に出たと認めるに足りる証拠はないから、被告人の殴打行為は、巻野の攻撃から自己の身体を防衛する意思のもとになされた反撃行為と見るのが相当である。
しかしながら、前記和智の供述によれば、被告人が右殴打行為をなす直前においては、巻野が後方に体勢を崩しよろめく姿勢であったことは明らかであり、このような状況にあった巻野に対し、被告人が巻野をその場に転倒させるほどの力でその顔面を殴打するということは、防衛に必要な程度を逸脱したものであって、被告人の行為は過剰防衛に止まるものといわなければならない。
したがって、正当防衛の成立を主張する所論は採用できないが、原判決には、過剰防衛を認めなかった点において判決に影響を及ぼすことの明らかな事実誤認があるといわなければならない。論旨は、右の限度で理由があり、原判決は破棄を免れない。
(小林充 福崎伸一郎 多和田隆史)